紙をめぐる話|紙について話そう。 No.27
中山英之
建築家
柳原照弘
 デザイナー

竹尾ペーパーショウと淀屋橋見本帖。
紙を体験するための空間を
手掛けていただいたおふたりの対談です。
共通しながら正反対という、
紙に対する面白い関係性が見えてきます。

2018年8月2日

初出:PAPER'S No.58 2018 秋号
※内容は初出時のまま掲載しています

中山英之・柳原照弘

柳原 僕は紙にものを描くことに対して神聖な気持ちを持っていて、たとえばノートに失敗したドローイングがひとつでも残るとすごく嫌なんです。描く紙の質はもちろん状況や道具もかなり厳選します。海外の旅の途中でわざわざノートを買ったり。
中山 それはすごい儀式性ですね。逆に僕は紙を贅沢に使うことに麻薬みたいな高揚を覚えるタイプかもしれません。開封したばかりのコピー用紙の束を見るとうっとりしてしまう。そこにほんの少しだけ線を描いてばんばん使ってしまいます。子供の頃は白くてきれいな紙がそうたくさん身近にあったわけではないですよね。その反動かもしれませんが、悪いことをしているような背徳感をどこかで求めているのかな。
柳原 行為は違いますけど、お互い変態ですね(笑)。でも確かに昔はチラシなんかの裏が白いと嬉しかったですよね。マットな紙ならなおさら。
中山 そうそう、鉛筆乗りのよい。その頃の志向は似ているのに、大人になってから別の変態の道に枝分かれしちゃいましたね(笑)。

決めないために、描かない。描く。

中山 普段から線数の少ないスケッチをたくさん描くんですけど、それは見せる相手にプレッシャーを与えたくないから、というのもあります。描き込まれたパースだと意見することを遠慮されてしまいがちになりますが、どこにでもある紙と文房具で描いたスケッチなら自由に意見を言ってもらえる。
柳原 僕は反対にスケッチを人に見せないんです。特別感を与える気がして。
中山 本当に真逆ですね。僕、自分が描いたものに愛着がまったくないんです。そのかわりというか、打ち合わせの間もずっとなにか描いていたりする。会議内容をその場で絵にすると、言葉と絵がセットになります。そうすると理解が直感的なものになるので、次の意見が出てきやすくなる。今回のペーパーショウの準備でも、実は田中義久さんとは初対面だったのですが、だいたいの対話がそんなふうにその場で進んでいきました。
柳原 僕はほとんど脳内で進めていくんです。クライアントと話して浮かんできたアウトプットのイメージを、最後までずっと頭の中でシミュレーションし続けます。その間、具体的なものはほとんど見せずに会話の中だけで考えを伝えていく。ビジュアルにするとイメージが固定化されてしまいますが、言葉ならそれが曖昧になるので可能性を広げやすくなるんです。
中山 なるべく多くの想像や含みを持たせるのって大事ですよね。
柳原 中山さんのスケッチも、建築を出さずにそこにある関係性だけを描いていますよね。考える余地が生まれてイメージがどんどん膨らんでいきそうです。
中山 その場でスケッチすると言いましたが、あとからよく見ると人やもの以外に描かれている建築的な要素はL字の線一本だけだとか、実はぜんぜん具体化していないことが多いんですよね。すべてを体現した一枚のスケッチ、みたいなものとは真逆で、むしろスケッチはぎりぎりまで情報を集めて、考えられる時間を伸ばすためにある。だからある意味では、決めてしまわないためのスケッチなんです。二人とも守っておきたいことは似ているのに、紙に描きつけることの意味が、まったく違う現れかたをしているのが面白いですね。でも柳原さんの場合、内装ってディメンションもあるしプランニングもあるし、脳内だけで完結できるものでしょうか。
柳原 仕事の中で自然とできるようになったんです。たとえばプロダクトデザインの相談を受けても、背景にあるブランド自体に問題の本質が潜んでいたりしますよね。それを見逃さないように根本の仕組みから考える習慣がついて、そのうちに空間も含めてぜんぶ頭の中で構築するようになりました。スタッフにも構想を共有しないまま進めるのですが、逆にあうんの呼吸のような関係が生まれて、今では僕のちょっとした素振りだけでやるべきことを想像してくれます。
中山
それはびっくりですね。僕の事務所では、たとえば線が二、三本しかない数枚のスケッチを、スタッフが勝手に模型にしたりします。そうすると、時々考えもしなかったものが出てくる。その線ぜんぜんそんなつもりじゃなかったのに、確かに合ってるね、みたいな。誰が考えたわけでもないことが、なぜだか自分たちの中から始まって、条件にまっすぐ答えているわけではないのに、不思議といろいろなことを満たしていく。ごく稀にあるそういう快感に、取り憑かれているのかもれません。

紙よりも見せたかったのは、

柳原 淀屋橋見本帖の内装では、紙よりも「竹尾のブランドを体験できる」ことを大切にしました。紙がほとんど見えない空間にしたのは、訪れた人がスタッフと相談しながら紙を選ぶ時間を演出したかったからです。たとえば漢方薬局のように、カウンセリングに訪れる患者さんと、悩みを聞ける薬剤師さんのような関係性が生まれれば、求める紙により出会いやすくなりますし、紙の専門家としての特長もより強く伝わるだろうと。
中山 よく分かります。今回のペーパーショウには新製品や定番商品を紹介するfine papersというコーナーがあるのですが、そこで大切にしたのも「竹尾の何たるかを見せる」ことでした。たとえばどんなに小さな紙切れでも見本帖に持っていけばあっという間に銘柄を教えてくれますよね。伝えたいのは紙そのものよりも、そうした能力を育て、繋いできた集団としての竹尾です。そうした職能が紙の流通業界の中にちゃんと働いていてくれて、半世紀以上にわたってペーパーショウを開催し続けてきた。それってとても奇跡的なことだなあということが、自然に体感できる場にしたかった。
柳原 これまで伝わりきっていなかった竹尾の良さですよね。淀屋橋見本帖のストックスペースをオープンなガラス張りにしたのも、スタッフが紙を選ぶプロフェッショナルな所作やスピード感を直接見てもらいたかったからです。そこから特別感や信頼関係が生まれれば、それは周囲に広がって空間そのものになってくれる。淀屋橋見本帖は棚を壁際に置かないなど一見非効率にも思えるつくりになっていますが、それはすべて竹尾というブランドの強みを最大限に見せるための工夫なんです。
中山 なるほど。fine papersの会場は、竹尾の倉庫に分け入って、茶紙で包まれた束を開封して破って持って帰ることができるような場にしました。従来は紙名やデモ印刷が施されたカードをお土産にしていたのですが、それを一切やめたのです。普段から、気に入った風合いや色の紙に出会ったら、名前が分からなくても大切にコレクションすればいい。だって竹尾へ持って行けばたちどころに同じものを見つけてくれるから。そういうメッセージです。
柳原 お互いに見えなかったものを見せるというところが共通していますよね。僕らがデザインしているのって表面じゃなくて空気そのもの。中山さんのスケッチに必ず人が入っているように、空間から生まれる距離や関係性のようなものを大事にしている。それってディテールよりもずっと重要なことですよね。

あえて使わない。あえて使う。

柳原
僕は手漉きの紙が好きで、自分の名刺にも使っています。楮を収穫した場所や時期、紙を漉く回数なんかによって色や質感、厚みがぜんぜん違ってくるようなところに、マテリアルとしての面白さを感じるんです。
中山 そうですよね。でも僕は和紙、これまでなかなか使えなかったです。建築は一点ものとよく言いますが、実は現代建築ってかなりカタログショッピング的というか、レディメイドなものの組み合わせでできています。それに対する批評行為として、その土地の自然素材を用いるような方法もあるとは思うのですが、それではなんだか別の土俵から叫んでいるような感じがしてしまって。素材にこだわっていますね、みたいな言われ方を避けようとしてしまうんですよね。でもこの頃は、それ自体つまらない思い込みだったかもしれないと感じ始めています。そもそも自然素材とレディメイドの製品を対比的に分類していること自体が勘違いだったのかもしれないと。
柳原 インテリアと建築ではスケールが違うから言えるのかもしれませんが、僕は「仕方がないよね」ということに抗いたいんですね。たとえば紙ってインテリアに使うことがなかなか許されない素材ですが、だからこそあえて試したくなる。淀屋橋見本帖の什器でも、製法や性質が紙に似ているので空間に繋がりが生まれるだろうと考えて、MDFを採用しています。ただ、いざ使うとなるとコーティングの問題が出てくる。
中山 水を垂らすと膨れちゃうんですよね。
柳原 そうなんです。だからといってコーティングすると、表面がテカテカで安っぽくなってしまう。でもなんとかそれに抗いたかったので、何度も実験をくり返し、ものすごい数のサンプルをつくって、ついにクリア以外の色を塗ることで塗装していないような素材感を出す、という解決策を見出しました。そんな風に、日頃からできるだけ既製品を使わないようにしているので、事務所には一冊もカタログを置いていません。ただそれは理念だけではなくて、関西はショールームが少なくて製品を直接見れないとか、東大阪に工場がたくさんあるので一からものをつくりやすいといったような、環境的な理由も影響していると思います。
中山 さっきの話でいうと、僕は逆でしたね。なるべく一般的に流通している匿名性の高い製品を使いながら、それが別の状態に読み替えられていくようなことを考えることが多かった。だから、たとえば蛇口やシンク、タイルなんかはできるだけ普通のものでいいんです。ただ、それでも建築の構造上どうしても既製品が収まらない場合も出てきます。そういう時にも、プロポーションはかなり特殊なのですが、カタログに載っている物に見えるようにつくる、といったことをすることすらあります。そういう特殊な注文を受けてくれる会社を散々探しまわると、大抵は東大阪の工場にたどり着く(笑)。
柳原 面白いですね(笑)。考え方は正反対なのに行き着く先は一緒っていう(笑)。

奥底で通じているもの。

中山 僕には使ってみたい紙ってないんです。ものの意味って文脈によってまったく変わってしまうので、それそのものに意味があるということを信じていなくて。先日ドリルデザインの方々と話をしていて「段ボールはなぜ茶色いの」という話題になりました。段ボールの自己再生紙だから、という以上の理由が分からないらしいのです。自己再生紙という意味では新聞紙も一緒ですが、こちらはインクの黒と紙の白が平均化したグレーという、出自を体現した色になっていて気分がいい。それで、それらを交差させるとグレーの段ボールができると。新聞紙はよく梱包に使われるから、もしかしたら引っ越しの風景が持っているトーンが変わるかもしれない。そうするとガムテープはなぜ茶色いの、という別の問題系が立ち上がってきて、グレーのガムテープが定番になるかもしれません。ものが属していた文脈を少しだけ書き変えると、それが新しい問題系を勝手に引き寄せて、世界のトーンが少しだけ変化する。僕はやっぱりそういうことに興味があって、特定の素材をフェティッシュに愛でるような感覚は希薄かもしれないです。
柳原 僕の場合、紙を含めてすべての素材に対して平均的に面白みを感じていますね。たとえばセラミックと紙は、原料を粉砕して固めた素材という意味でまったく平等に見ている。ちょうどいまデンマークのテキスタイルメーカーが、ジーンズなどの素材を圧縮して新たな建材をつくるプロジェクトを進めているんですが、彼らも同じように、そこから生まれた新しい建材を布と同等のものとして見ているんです。ただ厚みと固さが違うだけで、同じテキスタイルであると。
中山 面白いなあ。そう言われたら僕もテラコッタの植木鉢がすごく好きでした。植木鉢って、焼いた土の中に土を入れて使っているんですよね。だからあるのは土だけ。しかも、土を焼くと鉄分が酸化して赤を発色するから、緑の補色が植物を際立たせるという。長く流通しているプロダクトには、時々そういう奇跡的なものがありますね。そんなふうに、存在の奥にある原理みたいなものが見えてくると、自分にも何かを考えうる対象になるような気がします。
柳原 古代に使われていた紙なんかでも、原料を別の土地から仕入れてくるのではなくて、その土地にあった植物や木の皮からできていたりしますよね。焼き物でも、その場所に焼き物になり得る原料があったからこそ生み出された。人はそこに少し手を入れただけで、そうなる土壌は元々あった。そうやって、ものの向こう側に存在する可能性や関係性を引き出すようなデザインができたらいいなって、いつも思っているんです。

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