紙をめぐる話|紙について話そう。 No.24
石川九楊
書家
大日本タイポ組合
 グラフィックデザイナー

12年前から師弟関係にあるという、
石川さんと大日本タイポ組合のお二人。
書を学ぶことを通してデザインについても
学べているというお二人が、
今日も真摯に先生のお話に耳を傾けます。
 
2017年4月7日
 
初出:PAPER'S No.55 2017 夏号
※内容は初出時のまま掲載しています

石川九楊・大日本タイポ組合

石川 書の世界では書道用具のことを文房四宝と呼びますが、四宝というのは筆、墨、硯、紙を指します。その中で何が一番大事かと聞くと、多くの人は筆だという。書を少し長くやっている人には墨だと答える人もいる。コレクションが好きな人は硯にいく。でもそれは全部間違いで、一番大事なのは紙です。紙は字の姿を変えますから。例えばティッシュペーパーのような紙に書くのと上質紙に書くのとでは、同じ筆と墨を使っても全然違う字になりますよね。紙は書く以前に存在する一種の環境。地球があって初めて人間が生まれることができたように、紙は前提的存在。前提が変われば書も変わります。みんなどう書くかばかり考えて紙のことを考えないけど、本当は紙に一番凝らないといけない。だから紙を見て、この紙ならこんな字になるだろうと想像できれば、書の基本がわかっていることになるでしょうね。
秀親 それは経験して身につけていくしかないですよね。
石川
そうですね。直に書いてみて、紙がどんな表情になるかを体験する。その積み重ねしかない。書とは最終的に表情だともいえますから、そこまで見越して紙を選べるかどうかが重要なんです。

弘法筆を選ばず。でも紙は選ぶべき。

秀親 書の世界では、選んだ紙をすぐに使わずに何年か寝かせるっていう話がありますよね。
石川 ええ。寝かせるっていうのは紙を枯れさせる、つまり水分を自然に適度に飛ばすためにやるんです。
塚田 湿度が高い日は紙がしっとりして墨が滲むし、温度や季節によっても紙の様子が変わります。周辺の環境が全部紙に集約されて、書に臨むことになりますね。
石川 そうそう。そういう意味でも紙は環境なんです。土砂降りの日にはいくら墨をすっても滲みますから、雨の日は書くなって言う人もいますね。
秀親 いい書が書けた時には、それがどういう状況だったか覚えておけっていいますよね。反対に駄目な時のことも覚えておけと。そもそもどれがいいのか駄目なのかわからない事も多いのですけど(笑)。
石川 状況次第で全然変わりますからね。だから紙は大事だし、きちんと選ばないといけない。紙さえあれば爪で引っ掻いても字になりますけど、筆や墨だけでは書は成り立たないでしょ。竹尾さんは、人間にとっての地球みたいなものですよ。紙づくりって、人間が生まれ落ちるベースとなる地球をつくるようなことですから。
塚田 僕らは紙の上で一生懸命もがいているんですね。
石川 そう。みんな紙が主人公ということを忘れているんですよ。例えば白い紙に「一」という字を書くでしょう。それは字ではなくて字をのせた新たな余白ができたということなんです。書というのは、墨を載せることによって姿を変えた紙のことですから。
秀親 僕らも墨の部分以外の余白を見ろと教わってきました。余白がきれいならその書はきれいに書き上がっていると。同じようにデザインをする時も、余白に別の意味を持たせることを意識するんです。書いてあるものよりも、余っている部分をどう生かせるかと。
石川 そもそも墨の色っていうのは色ではなくて陰ですからね。紙と墨というのは陰陽の深み、つまり光と陰なんです。光を大事にしないと。それから時々、自分で漉いた紙を使うなんていう人がいるけど、そんな馬鹿げた話はない。紙を漉くのがどれだけ大変なことか。原料を吟味して、場所や道具を揃えて、漉くための技術を手に入れるのに、ゆうに50年はかかるでしょう。買わずに自分で漉くなんて…そんなものは紙じゃない。そんなことをするのは不可能ですよ!プロをなめたらいかんですよ。
塚田 餅は餅屋ならぬ、紙は紙屋、ということですね。
石川 そうです。いい紙がどこで漉かれているか、作品にふさわしい紙をどうやって手に入れるかを考えればいいんです。牛乳パックからつくった自作の紙に書いてくれなんて言ってくる人がいるけど、そんなの無理ですよ。

 

「紙」には二種類ある。

塚田 僕たちは普段デザインをするときは、つくるものに対してその都度最適な紙を選ぶので、好きな紙はこれ、と一概には言えないのですが、最近開いた展覧会のポスターではミセスB-Fのスーパーホワイトを使いました。しっとりとした肌ざわりと、明快な白さが欲しかったんです。書は墨ですが、印刷の場合はインキがどう見えるかを考えますね。紙にインキが載ったときの光沢の具合だとか、ニスをグロスとマットと使いわけて紙とのギャップを見せるとか、そういう選び方・使い方をしています。
秀親 デザインの場合は必ずクライアントがいて予算の限度が決まっているので、その範囲の中でベストな紙を選ぶことになりますね。書でもお金を出せばいくらでも高い紙はありますけど、普段使いで使える範囲は決まってきますし。ところで、先生が気に入ってらっしゃる紙ってあるんでしょうか?
石川 そもそも、紙と言っても二種類あるんですよ。字を書く紙は、紙なんだけど紙じゃないんです。例えば便箋には縦に罫が入っていますよね。あれは字を書きやすくするためのガイドじゃない。罫は元々、木簡や竹簡の「簡」を繋いだ姿をなぞって引いてあるんです。罫は「これは木簡ですよ、ここは文字を書く場所ですよ」という資格宣言。簡に見なしているから手紙を書簡という。そしてそれとは別に折り紙や包装紙のような、紙そのものの紙がある。
塚田 書の場合はまさに簡ですね。
石川 そうです。私も元は、書で一般的に使われる画仙紙に書いていました。でもあれは滲みますから、せっかく書いた字の状態が変わっちゃう。現代の言葉を硬質な文字で書きたいと思っても湿って拡張してしまう。それが嫌でずっと理想の紙を探し続けていて、辿り着いたのが雁皮紙なんです。これはほぼ書いた通りに定着する。でもそういう伝統的な紙を漉ける名人が今は少なくなり、原料も悪くなってきている。私が最初に使っていた頃の雁皮紙は、それはもう惚れ惚れするような美しい艶のある紙でしたね。
塚田 僕らが使っている紙ももちろん、先生が仰っている二種類の紙のうちの前者、字が載る方の紙ということになります。最近は塗工紙よりも非塗工紙のような素の紙を好きになってきています。手ざわりやインキの定着が気に入っているのです。もしかすると書を通して墨と紙の関係を学んだことが、紙の選び方やインキと紙の関係に対する考え方にじわじわと反映されているのかもしれません。
秀親 そうだね、無意識に影響を受けているかもしれない。
石川
そもそも「手で書く」ことから派生して活字も文字もできていますからね。デザイナーの皆さんがその原点を学ぶというのはとても大切なことだと思っています。

すーっと浸透していくような。

秀親 先生は「紅星牌(こうせいはい)」という中国の画仙紙の値段が、少し前に比べて近頃急に上がってきていると仰ってますよね。紙自体がほとんどつくれない、つくれる量が少ないから高くなると思うんですけど、現代の技術があれば紙の成分を分析するくらいはできそうですよね。そういう研究機関みたいなものってないんでしょうか?
石川 一時期、日本でも中国の画仙紙を研究してそれに匹敵するものをつくろうとしていたけど、やっぱりコシが違ったり、滲み方がまるで違ったりしてましたね。それは原料や製法の問題もあるし、製紙に加わる分析できない「なにがしか」のものがあるでしょうね。
塚田 例えば水は、その土地でしか得られないものですものね。
石川 聞くところによると、工程を見せてくれと言っても近づくことさえできないようです。コシからいうと竹系統が入っているだろうし、滲みからいえば綿系統の原料も入っているでしょうね。ただ、それがどんな比率でどうつくられているかはわからない。
塚田 水に溶かして乾かしてみたら、綿が何割なのかくらいはわかりそうな気もしますが。
石川 それはわかったとしても、その綿がどこのどういう綿なのかまではわからないでしょうね。我々は中国のものを本画仙、日本のものを和画仙と呼んでいましたが、やっぱり質が違う。日本の画仙紙からは、肌理の細かな、すーっと浸透していくような滲みは生まれない。
秀親 少し前に台湾で筆を買ったんです。それほど高くない値段なのに質が良かったので、墨はないんですかって聞いたら、墨はだめだ、墨は日本で買いなさいと言われて。筆に関しては日本に負けないものがあるのに、どうして墨はだめなのかがとても不思議でした。中国の墨はどうなんですか?
石川 元は良かったけど、文化大革命が終わってから質が落ちましたね。安くはなったけど、原料、製法がひどくなっている。紙もそうですね。
秀親 昔は日本でも真似できないような質のいいものが中国にあったんでしょうか?
石川 もちろん。歴史的な深さが違いますし、まず膠(にかわ)が違います。日本は牛の膠ですけど、向こうは魚系ですから。日本の墨はピカピカで真っ黒に近いけど、中国のは沈んだ陰影(かげ)に近い。だから学生時代は必死になって求めましたよ。非常に高価でしたが。今は安く手に入るけど粗悪になっていますね。それから日本の筆がいいというのは、中国から原料を買ってきて、その中からいい毫(け)を精選してつくっているからですね。中国では良いものもそうでないものも全部混ぜてつくっちゃっているようですから。
塚田
すーっと浸透していくような滲み、たまらないですよね。それが体験できるのも、書の楽しみのひとつだと思います。

ルールを踏み外してでも、踏み出すべき。

秀親 2017年7月に上野の森美術館で先生の展覧会「書だ! 石川九楊展」が開催されます。今回は新作に加えて我々が見たことのない昔の作品も並び、いまだかつてない規模になりそうです。日本経済新聞社と共催ですが、僕ら塾生が実行委員会を構成しています。
塚田 広い会場で大きな作品がいくつも見られる貴重な展覧会となりそうです。
石川 今回はまだ一度も全部を出したことのない70センチ×85メートルの作品を出展しようと思っているんです。ただね、大きいからどういう風に並べたらいいか……。
塚田 85メートルですか……。それは何かの物語なんですか?
石川 ええ。題名は『エロイエロイラマサバクタニ又は死篇』といいます。世の中では白い紙に黒い墨そして筆で書いたものが書だと考えていますが、それはただの書的情緒なんですよ。書の世界は情緒だけで成り立っているわけではない。そこに言葉を書いて、その言葉を書かざるを得ない、そして書でないとそれを表現できない書き手がいる、ということが大事なんです。そんな中で、まず白くて、滲み掠れる画仙紙から生まれる情緒をどうにかしようと思って、画仙紙を薄い墨で染めて灰色にしました。そうすると滲みも止まりますし、灰色をバックに字を書くことによって、よくいう白と黒のコントラストの美ではない、言葉をどういう風に書いたかという純粋な書の美を表現できると考えたわけです。そんなことをしていた時代を自ら「灰色の時代」と呼んでいました。そのうち、その手法でやるとその時代の書が自動的にできてしまうんですね。そこで「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」はキリストが十字架に架けられた時に最後に叫んだ言葉で「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」という意味です。キリストは神に助けてもらえると思っていたけど捨てられてしまう。でもそれは人間としてイエスを一度死なさないといけなかったからだと思うんです。この「灰色の時代」もなんとか終わらせなきゃいけないと考えて、総集編として今まで書いてきた物語をつないで書きついだものが『エロイエロイラマサバクタニ又は死篇』の作なんです。
秀親
自分の書いてきたスタイルを一度放棄するという決別の書ですね。
石川 放棄するというよりも、内在化して次に進む。書とデザインの関係にしても、両者は違うものだからと考えてしまうと、先には行けない。自分が書きたいと思うんだったら書の世界のルールを踏み外してでも進むべきなんです。そんな様々な時代の試みが合体し、積み上がって今の作品ができてきている。「書だ!石川九楊展」では、そういう過程を見てもらえると思います。
塚田 僕らがリアルタイムで知っているのは先生に初めてお会いした12年前以降の作品ですが、今回の展覧会ではそれ以前の作品はもちろん、もしかしたら未来も見えてくるのかなと思っています。密度の濃い展覧会になりそうで本当に楽しみです。デザイン・印刷・出版・編集に携わる人にも、見ていただきたいですね。
 
書だ!石川九楊展
2017年7月5日|水|─ 7月30日|日|
上野の森美術館

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